2008年04月07日
1ヵ月経って・・・
京都の女子大学生が、歩き遍路をして1ヵ月が経ちました。
その後、彼女が改めて感じたことを手紙にしてくれました。
また、巡礼中に撮った素晴らしい景色の写真も届きました。
お遍路の体験が今もなお、どれだけ彼女の心に深く響いているか、
そしてまたそれを自分だけでなく、他の人にも伝えていきたいという彼女の思いがこもっています。
↓↓↓
私たちには生まれながらにして与えられた運命がある。
仏教ではそれを、前世の業(ごう)からきていると考える。
現代社会では、ものすごく不可思議で受け入れがたいものの見解だ。
正直、私もそのことを初めて聞いたときはあまり納得できなかった。
でも、自分にはどうしようも出来ない不幸や災難は、誰にだっておこりうる。
それを悔やんでも恨んでも、それが現実であり、どうしようもできない。
その原因を突き止めようと思っても、答えなんて決して出てこない。
そんな時思うのは、仏教思想の因果応報である。
自分の前世の罪を現世で償うために、この出来事が起こっ たのだ。
そう考えたときに、なんとなくこの考えが納得できたように思う。
しかし、前世の罪を悲しんでも、何も始まらない。
悲しい出来事を受け入れなければならないのだ。
最近、中学の友達がこういう言葉を教えてくれた。
「三流の人間は環境を悲しむ。二流の人間は環境を楽しむ。一流の人間は環境を創る」
私たちは、自分の運命を受け入れ、そして新しい何かを切り開いていかなければならない。
遠い昔、お遍路さんは四国に死ぬためにやってきた。
お遍路さんの白装束は「死装束」で、
いつ死んでもいいようにああいう衣装を身にまとっていたのである。
現代、自分探しや自分の人生の転換期にするためにお遍路に来る。
つまり、生きるために歩きにいているのだ。
人は生まれた瞬間から、死へ向かっている。
人間には自殺細胞と言うものがあり、古いものを捨て、新しいものへと転換させるのだ。
しかし、これは生きるために必要なことで、私たちは確かに死へと毎日進んでいるかもしれないが、
人間の無意識の世界である、細胞やDNAは生きようと努力しているのだ。
私たちは、なんとしても生きなければいけないのだ。
自分で自分を見捨てたら、誰が私を認めてくれるのか。
仏教界で、自殺をした人はもう二度と人間に生まれることが出来なくなる。
どんなにつらい境遇に巡り会っても、それを認めて生きていかなければならない。
その手助けとして、お遍路が一つの道になっている。
「人に自分を認めてもらう。」
それは生きるうえで、本当にすごい原動力になる。
お遍路として四国に来て一番初めに感じたことが、それだった。
私がただお遍路としてその場にいるだけなのに、
私を暖かく受け入れてくれ、そして励ましてくれた。
見ず知らずの人間を、 四国のどこを歩いても、
当たり前のように、もてなしての心で接してくれる四国の素晴らしさに感銘した。
生きるために、認めてもらうために四国を回った。
そして、今度は私が四国に貢献したい。



その後、彼女が改めて感じたことを手紙にしてくれました。
また、巡礼中に撮った素晴らしい景色の写真も届きました。
お遍路の体験が今もなお、どれだけ彼女の心に深く響いているか、
そしてまたそれを自分だけでなく、他の人にも伝えていきたいという彼女の思いがこもっています。

私たちには生まれながらにして与えられた運命がある。
仏教ではそれを、前世の業(ごう)からきていると考える。
現代社会では、ものすごく不可思議で受け入れがたいものの見解だ。
正直、私もそのことを初めて聞いたときはあまり納得できなかった。
でも、自分にはどうしようも出来ない不幸や災難は、誰にだっておこりうる。
それを悔やんでも恨んでも、それが現実であり、どうしようもできない。
その原因を突き止めようと思っても、答えなんて決して出てこない。
そんな時思うのは、仏教思想の因果応報である。
自分の前世の罪を現世で償うために、この出来事が起こっ たのだ。
そう考えたときに、なんとなくこの考えが納得できたように思う。
しかし、前世の罪を悲しんでも、何も始まらない。
悲しい出来事を受け入れなければならないのだ。
最近、中学の友達がこういう言葉を教えてくれた。
「三流の人間は環境を悲しむ。二流の人間は環境を楽しむ。一流の人間は環境を創る」
私たちは、自分の運命を受け入れ、そして新しい何かを切り開いていかなければならない。
遠い昔、お遍路さんは四国に死ぬためにやってきた。
お遍路さんの白装束は「死装束」で、
いつ死んでもいいようにああいう衣装を身にまとっていたのである。
現代、自分探しや自分の人生の転換期にするためにお遍路に来る。
つまり、生きるために歩きにいているのだ。
人は生まれた瞬間から、死へ向かっている。
人間には自殺細胞と言うものがあり、古いものを捨て、新しいものへと転換させるのだ。
しかし、これは生きるために必要なことで、私たちは確かに死へと毎日進んでいるかもしれないが、
人間の無意識の世界である、細胞やDNAは生きようと努力しているのだ。
私たちは、なんとしても生きなければいけないのだ。
自分で自分を見捨てたら、誰が私を認めてくれるのか。
仏教界で、自殺をした人はもう二度と人間に生まれることが出来なくなる。
どんなにつらい境遇に巡り会っても、それを認めて生きていかなければならない。
その手助けとして、お遍路が一つの道になっている。
「人に自分を認めてもらう。」
それは生きるうえで、本当にすごい原動力になる。
お遍路として四国に来て一番初めに感じたことが、それだった。
私がただお遍路としてその場にいるだけなのに、
私を暖かく受け入れてくれ、そして励ましてくれた。
見ず知らずの人間を、 四国のどこを歩いても、
当たり前のように、もてなしての心で接してくれる四国の素晴らしさに感銘した。
生きるために、認めてもらうために四国を回った。
そして、今度は私が四国に貢献したい。



Posted by 遍路とおもてなし at 13:09
│歩き遍路実況報告!